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武蔵国の玄関口は埼玉だった! 「2つの理由」を示す

埼玉地名の由来を歩く③

②金錯銘(きんさくめい)鉄剣

 もう一つの根拠は、言うまでもなく埼玉古墳群である。行田市の利根川と荒川の氾濫原のなだらかな台地の先端に、前方後円墳八基、円墳1基の合計9基の大型古墳が密集するように残されている。そのうちいちばん目立つのは「丸墓山(まるはかやま)古墳」である。直系105m高さ19mで、円墳としては我が国最大の規模を誇っている。

 その山頂から見えるのが「稲荷山(いなりやま)古墳」で、昭和43年(1968)の発掘調査で礫槨(れきかく)(埋葬施設)の中から「金錯銘鉄剣」が発見され、大きな反響を呼んだことはまだ記憶に新しい。

丸墓古墳から見た稲荷山古墳

 この鉄剣は国宝に指定され、さきたま古墳公園の博物館で実物を見ることができる。この鉄剣に文字が刻まれていることがわかったのは、発掘から10年後鉄さびを落とす作業をしている時だったという。

 鉄剣に刻まれた文字数は表・裏計115で、同種の剣に刻まれた文字数で他のものを圧倒している。

 表の冒頭には「辛亥年七月中記」と刻まれている。つまり「辛亥(しんがい)の年の7月に記した」という意味である。この「辛亥の年」とは、現在では471年のことだと考えられている。これが正しいとなると、平城京ができるよりも約240年も前に、この地にそれに匹敵する豪族が住んでいたということになる。

『行田の歴史』(2016年)によれば、この銘文は、

①銘文の年代
②「作刀者」「ヲワケの臣」の名前と「上祖」から自分までの八代の系譜の記載
③先祖代々「大王」に仕え、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」という名称の軍事的官僚の代表者を務め、大王の政務を補佐したこと
④「百練利刀(ひゃくれんのりとう)」(よく鍛えた切れ味のよい刀)を大王に仕えた由来を記録したこと

の4点からなっているという。

 裏に刻まれた「ワカタケル大王」とは、471年説に従えば、雄略天皇と推定でき、その時期に作られたものと考えることができる。

 先に紹介した古墳群は5世紀後半から7世紀の初めにかけて造られたものであるが、どのような豪族が支配していたのかは諸説あり、定説はない。しかし、律令成立以前からこの埼玉の地に桁外れに強大な豪族が存在していたことは事実である。

埼玉古墳群の図

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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